犀の顔をした仏

 犀の顔をした仏様がこの病院にはいらっしゃる、と祖母は白い光、白いカーテンとシーツに覆われた白い顔で訴えた。その手は薄汚れた包帯のように力なくベッドにわだかまり、薄暗い影をつくっていた。ブラウン管に映ったノイズまじりの映像や、とぎれとぎれの壊れたピアノの音のように実在感がない祖母だった。ただ干からびた白菜のような体臭が、それが人間の成れの果てであることを思い出させてくれた。
 祖母の言う犀の顔をした仏というのを私が見たのは彼女の臨終の床だった。胸を掻きむしって苦しみ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、と言い募る祖母の枕元にそれは立って両手を合わせていた。祖母が息を引き取るとそれは消えた。まったく、犀そのものの顔をした仏だった。そういう仏がインドとかにいるのかどうかは知らない。あれがインドサイの顔だったのかも、犀について特に詳しくはない私は知らない。あれが苦しむ祖母を救おうとするものだったのか、祖母を苦しめるものだったのか、それもわからない。ただそのようなものを私は見た。
 それから私は色々なことがどうでもよくなって、長く続いていた自律神経失調が少しよくなった。今ではシタールを趣味にして夜な夜な爪弾いては弟に煩がられている。いつか私もあの白い光のなかに溶けてゆく。いつか薄汚れた包帯のようにほどけてゆく。でももう少しだけ、とぎれとぎれのピアノの音が鳴り始めるのが後ならいい。そんな風に思いながらシタールを弾く時間が私には必要だ。だから犀や麒麟やライオンやの顔をした全ての仏は、今はまだ私のことは放っておいてほしい。