『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』観た

 お祓いでした。

 シンエヴァはお祓いでした。

 苦悩と怨念に満ちた、この異常な虚構が最後に救いを求めたものは、やはり虚構でした。

 この作品が、現実を肯定できるものとするために行ったことは、虚構を肯定することでした。

 碇シンジが25年かけてたどり着き、くぐり抜けた姿は「碇シンジのネーム」でした。

 

 虚構として我々の前に現れることを受け入れることを通して、彼はますます人間らしくなりました。

 おめでとう……、おめでとう……。

 

 という感想だった。とてもよかった。

 メタフィクション的な部分を置いておいても、あの誇大妄想的かつパラノイアックで病的な世界に生まれてしまったリリンとかいう奴らとその模造品どもが、あらゆるでたらめに抗して生きてゆく姿が無常的でよかった。

 「人を捨てる」という表現が出てくるけど、最初から人とも言い難いような奴らだからこその虚しくも尊い重みがあってよかった。

 仮称アヤナミのあの生の肯定がよかった。あれが決定的だった。あれがなければシンジによる救済は嘘っぽくしかならなかったろう。

 

 

 というわけですごく真面目にすごくふつうにすごくベタに大感心して観た。うらやましいか。

日記

 文章を書いてみたんだけど何だか釈然とせずパッとしない。それは当たり前のことなので、愚痴を言いたいわけではない。最近なにも書いてないからともかく何でもいいから書いてみようというだけの動機でいきなり書き始めてそんな事でおもしろいのが書ければ世話はない。
 ともかく書けば、自分の関心がわかりはする。それは具体的に生活のなかでとても役立つ。



 イメージと事実がいつも乖離している。毎日、不安な夢、恥ずかしい夢、居心地の悪い夢ばかり見る。その夢が起きている間もずっとべったり貼り付いている。自分でみんなウソだとわかっている。その、現実が自分のイメージに侵食されているという気分が書くものに反映されていると思う。現実について感じている別の問題と混淆しながら。



 嘘をついたり隠したり誤魔化したりで言語活動が構成されている気がしていやだ。だからといってとくに真実に関心があるわけでもない。本当だがつまらないことはいくらでもある。ただ、必要なこと、自分にとって重要なこと、を話したいという気分はある。



 あるきっかけから、「寒い」という言葉がとても強く頭に浮かんでくるようになった。「寒い」と書く頻度が爆増したと思う。どうもこれが書くのに邪魔になる。



 報酬への反応が強く、罰回避の傾向が弱い人間が楽しそうで羨ましい。僕はその逆でなんとも詰まらないと思う。頭の内側にべったり海苔が貼り付いたような気分でいつもいる。昨日『この世界の片隅に』を観たせいで海苔のイメージが強く出てしまった。ずっと前から妙に老婆のイメージが強く頭にある気がする。さっき書いたのにも「祖母」が出てきたし。義の祖母が、とりわけその金歯と笑顔が嫌いなことと関係があるのだろうか。



 文章がパッとしないと書いたけど、

おや、おや。一体どういうことだろう。祖母にあれほど警告されていたのに私は簡単に真実を見てしまったのだろうか。あっさりと真実の罠にかかり、それに取り込まれてしまったのだろうか。人は簡単に真実に落っこちてしまうから、ちゃんとバランスを取って歩きなさいとあれほど言われていたのに】
「どうにもならない。また鼠になって走るさ。影がいつもともにある」
「月や街の灯りが?」
「夜のサイレンや、サイダーの泡や、立ったまま眠るキリンや、ともかく何かはだ。何になるかは知らない。深い海の底の退化した目かも」】
 私はくずおれ、泡を吹いて痙攣し、自分の絶命をしっかり見るために目を大きく見開きながら洗濯物を籠に放り込み、折しも迷い込んだ蝶に目をやって、サンダルを鳴らし、家に帰ってゆく。目が慣れてなくて、家の中に影がぎゅうぎゅうに詰まっているように見える。食事の支度をする。明日起きる準備をする。首に下げた十字架のネックレスを引きちぎり、それを遠い崖下に放る。何も肯定せず、何も否定しない。】

 という三箇所だけは自分でちょっと気に入ってて、まあ何か書けば1個か2個か3個くらいなんとなく気に入るところは出てくる。人に読ませたいほどの出来にならなかったとしても、読む理由のない文章だから書く理由のない文章だということにはならず、書く理由としてはそれで充分だと感じる。

 

全ての日

 緑色の砂漠だった。月に照らされて透き通った海のようにさらさらと耳に鳴る。まるで夢の縁に立っている思いだった。この煌めく緑の砂すべてが、ケムミァーンの父祖たちであるのだろうか。
 ケムミァーンは氷から生まれたと聞かされていた。本当のところは知らない。大体、人間がどこから生まれてくるのかでさえ、本当のところは誰も知らない。ケムミァーンは流氷にのってやってきた。ケムミァーンは緑の砂漠の砂になる。それが繰り返されてきたこと。それが確かなこと。それは葉が風にそよぐことと同じように魔法だ。
「俺は、私は、明日は。またしてもここに来た。憶えている──憶えている。忘れるものか。確かなことだ。時がある限り続くであろう。憶えている──憶えている。だが記憶とはなんだろうか。現にあるすべては記憶とどう違うのか。一度ごとにはじめて作られる。見出される。ケムミァーンは、またここに来た、またここに初めて来た、いつも初めて来るのだ、何度でも」
 この砂漠に寒さはなかった。悲しみのひと欠片とてなかった。痛ましいほど純粋に砂漠が広がっていた。
 なぜ私がここに来ることができたのかはわからなかった。そうであるなら、きっと私がここに来たという考えは間違いであるのだろう。私はここにきっといないという仕方であるのだ。人はいる以外のところではいないのだから。
「ケムミァーン。葉脈。あなたの意味がその出生と死をただ繰り返すことにあるのなら、あなたが振り子運動のようなものでしかないのなら、あなたがただの砂に帰着するなら、それは救いだろうか。あなたという余剰が剥ぎ取られることは」
「私はおまえの言うことを理解しない。どこにも余剰も不足もない」
 ケムミァーンとは、気づいてみれば、それはただの影であった。月の夜、居酒屋に付き合わされた帰り、石の橋の上を走る白い鼠を見かけた。白い鼠の落とす影を。すると無性に寂しく死にたい気分になった。
 そのケムミァーンと気づけば三百年を過ごし、とうとうこの砂漠にやってきてしまった。石の橋の上に私を置き去りにして。
 おや、おや。一体どういうことだろう。祖母にあれほど警告されていたのに私は簡単に真実を見てしまったのだろうか。あっさりと真実の罠にかかり、それに取り込まれてしまったのだろうか。人は簡単に真実に落っこちてしまうから、ちゃんとバランスを取って歩きなさいとあれほど言われていたのに。
「ねえ、ケムミァーン」
「なに?」
「すべてのものがすべてであること、それだけが存在して、これらはただのその一部であるにすぎないのかな?」
「さあね」
「ケムミァーン、あなたが砂になったら、私は? 私はどうなるの?」
「どうにもならない。また鼠になって走るさ。影がいつもともにある」
「月や街の灯りが?」
「夜のサイレンや、サイダーの泡や、立ったまま眠るキリンや、ともかく何かはだ。何になるかは知らない。深い海の底の退化した目かも」
 そんなようなことを。そんなようなことを。そんなこととともに。

 洗濯物がいやに熱く感じられた。雑草が随分伸びた。除草剤を買ってくる必要がある。すべて夢まぼろしのなかで。結局は葉っぱのお金で。洗剤の匂いと太陽の匂いが混じって届く。
 私はくずおれ、泡を吹いて痙攣し、自分の絶命をしっかり見るために目を大きく見開きながら洗濯物を籠に放り込み、折しも迷い込んだ蝶に目をやって、サンダルを鳴らし、家に帰ってゆく。目が慣れてなくて、家の中に影がぎゅうぎゅうに詰まっているように見える。食事の支度をする。明日起きる準備をする。首に下げた十字架のネックレスを引きちぎり、それを遠い崖下に放る。何も肯定せず、何も否定しない。
 そんなことをケムミァーンと約束したような気がしたから。気がしただけなんだが。

セブン小僧

 浮遊エビの透き通った脚を見つめるうちにすっかり上の空になって、黄枝さそいの話をまるきり聞き逃してしまった。
 ひとつの世界にチューニングを厳密に合わせ続けるのは私には難しいことで、大まかに固定することはできるにしても、気がつくとすぐに振れ幅が許容値を超えて、位相がずれ、丸いテーブルの向こうに座っている黄枝が斜めに傾いだ枯れ木に変わってしまったりする。
 けれどそれはお互い様だし、黄枝もあまり気にしていないようだ。
 表は雨で、黄枝にとってもそうらしい。雨といってもそれは漏出したデータの残骸であり、訳語としては少し飛躍があるのだが、他に伝えようもない。ともかくそれは、ざざざざと音を立てて降りしきる。
 と、私がコントロールを離れ、自律駆動し始めた。同期が不安定だから仕方がない。
「ねえ、黄枝、またあの話してよ」
 と私は眠そうな顔でせがんでいる。だが、私には、「あの話」の心当たりがまったくない。


 黄枝がセブンでバイトしていた時、セブン小僧に遭った話だろうか?
 黄枝が普段と違うシフトに駆り出されたときの事。たまたま一人きりになったタイミングで、ヤマトの宅配員が荷物を受け取りにやってきた。どう対応していいかわからずとまどう黄枝の裾を、どこから現れたのか、頭の大きな子供が引いた。子供はレジのタッチパネルを指して、「日報」「日報、ってところにあるよ、ヤマト」と操作を教えてくれる。
 何しろ慌てているから、不審がるより先に、とにかく言われるがままに操作を終わらせてしまって、荷物を受け渡した時には、もう子供の姿はどこにもなかった。
 相模のセブンでは数年に一度そのような子供の目撃情報が語られ、「セブン小僧」と呼ばれており、セブン小僧におでんを食べさせたら熱がって鼬の正体を現したとか、それをやった人間が原因不明の高熱で死んでしまったとかいう話が伝えられている事を、翌日聞かされたという。


 でも、黄枝が「また?」と語り始めたのはそれとは全く違った物語だった。それはまだ昔のことがいつまでも昔のことのままであったくらい昔の話、もう決して未来や現在になったりしない昔の話、モナドの暗号が一つも解かれておらず、諸世界が見かけ上ぴったり一致して見えるほど同期が強固だった時代に語られた物語の一つなのだという。


 その話を聞いている間に、私は眠ってしまって、私も眠ってしまって、そのことによって私は再び同期し、浮遊エビが永遠に生き続ける部屋のなかに戻ってきたのだが、目が覚めたときには、もう誘は帰ってしまっていた。せっかく久しぶりに遊びにきてくれたから、ほんとうはもっと色々やりたかった。テーブルの上には厚い厚い埃が積もっていて、その下には真っ茶色になった下手くそくそな羊毛フェルトシーラカンスマスコット(私の)と上手なテーブルセットマスコット(誘の)がまだ形を留めていた。セールを見てなんとなく買って放置していたキットに使いみちができてよかった。でももっと色々遊びたかった。


 服に積もった埃を払って、取れてしまったドアの板を踏んで表に出ると、村は滅びて、巨獣が骨だけを砂に残して消え去るように、白茶けた遺跡に変じていた。黄枝は遠い昔に死んでいるし、死んだままだ。しょせん信号機の織りなすまぼろしに過ぎない。雨の気配ももう少しもない。小さく絞られた陽が、進め、留まるな、進め、と急かすようだった。
 私は家を振り返った。暗い奥に、私がテーブルに突っ伏したまま眠っている。しばらく、眠り続けたままだろう。
 私は歩きはじめた。

犀の顔をした仏

 犀の顔をした仏様がこの病院にはいらっしゃる、と祖母は白い光、白いカーテンとシーツに覆われた白い顔で訴えた。その手は薄汚れた包帯のように力なくベッドにわだかまり、薄暗い影をつくっていた。ブラウン管に映ったノイズまじりの映像や、とぎれとぎれの壊れたピアノの音のように実在感がない祖母だった。ただ干からびた白菜のような体臭が、それが人間の成れの果てであることを思い出させてくれた。
 祖母の言う犀の顔をした仏というのを私が見たのは彼女の臨終の床だった。胸を掻きむしって苦しみ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、と言い募る祖母の枕元にそれは立って両手を合わせていた。祖母が息を引き取るとそれは消えた。まったく、犀そのものの顔をした仏だった。そういう仏がインドとかにいるのかどうかは知らない。あれがインドサイの顔だったのかも、犀について特に詳しくはない私は知らない。あれが苦しむ祖母を救おうとするものだったのか、祖母を苦しめるものだったのか、それもわからない。ただそのようなものを私は見た。
 それから私は色々なことがどうでもよくなって、長く続いていた自律神経失調が少しよくなった。今ではシタールを趣味にして夜な夜な爪弾いては弟に煩がられている。いつか私もあの白い光のなかに溶けてゆく。いつか薄汚れた包帯のようにほどけてゆく。でももう少しだけ、とぎれとぎれのピアノの音が鳴り始めるのが後ならいい。そんな風に思いながらシタールを弾く時間が私には必要だ。だから犀や麒麟やライオンやの顔をした全ての仏は、今はまだ私のことは放っておいてほしい。

手すさび1

 影には、影との約束がある。誰しもが忘れたものを影は忘れていない。日が傾くにつれ伸びてゆく影は、人が触れたものに指紋を残してゆくように、見る者の心に、その約束を少し残してゆく。それで人は首をひねる。静けさ以外に、騒がしいものは何一つないのに、暮鐘が、朱色の幕に閉ざされ少しずつ動きを失ってゆく光のなかで、最後の息である産声をあげるのを聴いた気がして。

 

 

テーブル

ウクルーカビンは以後あらゆる人間との関係を絶って一人の家で貯金を食いつぶして暮らしたのだが、その時に作曲し一人で奏でた音楽はいずれもそれまでどのような努力を以てしても届きえなかった高みにあった。孤独がそれを聴いた。

ウクルーカビンの日々は、とても良いものだったが、とても良くないものだった。波は波。苦しみは苦しみ。テーブルの上の頭蓋骨はテーブルの上の頭蓋骨。

ウクルーカビンは気が済むと、テーブルに自分の頭蓋骨をことりと置いて撫で、そして死んだ。