出現 2

暗かった。体育館倉庫から地下に繋がる長い長い階段をランタンを頼りに降りていった。10分もの間、自分が白い埃の積もった薄い金属の段を踏む音を聴いていた。どうしてもそうしなくてはならなかった。地下一階に着いた。まっすぐの一本道。地下道は湿っていた。暗いトンネル。カビの匂いがした。人間の白骨死体がいくつか転がっていた。甘い臭気をしっかりと覚えている。生まれてから桃や苺だけを食って育った白痴の糞尿のような。いくつかの幻覚を見た。ガラガラや、ベビーカー。老婆。人ほどの大きさの蝙蝠のたくさんの目。暗闇と幻覚の向こうから、何か金属を引きずるような音を立てて、その白いものは来た。ねじれた薔薇のような。ただその花弁はすべて厚い唇のような肉でできていた。私はそれが人間だということを直観した。お母さんだ、とその時は思ったくらいだ。それはきっと何かの間違いだろう。お母さんは私にすがってきた。私に助けを求めていた。

「お母さん、お母さん!」お母さんは今も別の校舎で静かに過ごしているはずだということを忘れて、私はお母さんに抱きついた。「どうしたの? 早く一緒に帰ろう」

お母さんは羊のような声で啼いた。すると私の左目に激痛が走った。

お母さんは羊のような声で啼いた。すると私のどこかがぶちぶちと切れた。

お母さんはその先端部の薔薇を構成する全ての唇を震わせて笑った。

「お母さん……! お母さん!」私は泣き叫んで、お母さんから身を引き剥がそうとしたが、お母さんの激しく振動する唇から発される強烈な音波が私を捕まえているためそれはできなかった。この時、私の意識は少しおかしくなっていて、私がすでにお母さんに殺されたのだということを既定の事実として捉え、今私に起きている状況はその回想なのだと考えていた。

「お母さん!」私は自分の耳をひきちぎって、それをお母さんの向こうに放り投げた。

「さそりさん。食べ物を粗末にしてはいけませんよ」お母さんはそう言って、私の耳を取りに離れていった。今だ、逃げるなら今だ。

 落としたランタンを拾おうとしたが、手からぬるぬるする何かが大量に分泌されていたせいでうまく掴むことができなかった。左目がよく見えなくなっていて、触ると眼窩から硬い何かが飛び出ていた。むき出しの神経みたいに、触ると非常な激痛が走った。

 私はランタンを諦めて自分が来た暗闇の方に戻った。暗い階段を一歩一歩踏みしめて登った。その後ろから、ギイギイギイギイギイギイギイギイと何かを引きずるような音が追ってきた。

 無我夢中で私は部室まで帰り着いた。それから、私の目から生えてきたお母さんに戻ってもらうために一週間ものあいだ、聖霊術師の治療を受けなくてはならなかった。

 

出現 1

 戸中井さそりは高名な死霊術師で、極端な人嫌いとして知られている。中学生だった頃に書いた「悪」というなろう小説が高校入学直後に出版され、15歳で商業デビューしたラノベ作家でもあり、文芸部では伊伊島よろいと並んで顔役のような存在だ。彼女は今日も部室の隅のカウチに腰掛けて頭を抱え、強い恐怖に苛まれている。今日の恐怖は、自分の体が、すぐにバラバラになってしまうパーツの寄せ集めでしかないのだという、強いリアリティを伴って不随意に反復される思考から生じている。雑に眼窩にはめこんだ眼球、てきとうに関節同士をくっつけて健でつなぎとめ、皮膚で覆いをかけただけの指。手慰みのDIYで作られたお人形のようなこの躰が自分の全てなのだということが怖い。小説を書くのが好きだ。精緻な精妙なこの世がどれほどの意味を包摂しているのかを物語の形で書き表したい。それを可能にするための絶対に必要な条件は、自分に脳があって、それが正常に動作していることだ。その条件があまりにも厳しい。放っておいてもすぐに劣化し、やがて機能を止めてしまう脳。この世に存在するすべての時計は、私の残り時間を刻んでいる。怖い。自分が消えてしまうことが怖い。時計の針が私の存在を少しずつえぐり、削いでゆく。私はやせ細って消えてゆくんだ。ばらばらの残骸だけが後に残るんだ。犬トウモロコシが戸中井さそりの頬をかりんとうでつついている。犬トウモロコシとはペンネームであり、もう少しちゃんとした本名は別にあるのだがみんな犬トウモロコシと呼んでいる。犬トウモロコシはtwitterでフォロワーが2000人の同人漫画書きだ。「さそりちゃーん、また怖いの? かりんとう食べる?」「犬、犬」「なーに?」「この世があることが怖くないの?」「こ・わ・い」にこにこして戸中井に絡んでいた犬トウモロコシが真顔になった。この世が怖くない人間なんてこの世にはそうそういないのだ。「もういやだ、こわい……」戸中井はぐすぐすと泣き出した。「トナカイちゃんは怖がりなのに怖いところにばっかり行きたがるからね。前に目玉を薔薇にされそうになった時なんか、見てるほうが怖かったよ」戸中井はトラウマをほじくり返されてカタカタ震え始めた。

私の星を埋め尽くす希望の昆虫

 私は自分の呪いで化粧をする。ほどけた冗談を結んで首に掛ける。憎悪を爪に塗る。私は死んだ自分の怨霊であると確信している。首吊りの縄。首吊りの縄! それが私の母! 天使! それは罪と穢れの塊だ!
 私は倒れたビーカーから偶然に生まれたのだという。父はそのビーカーで全能の救世主を作るつもりだったそうなのだが、母がそのビーカーを倒してしまったため、本来生まれるはずだったものとは似ても似つかない私が生まれてしまった。私は母に引き取られた。母は父を殺し、父の仲間を殺し、私を愛情深く育てた。
 私はそれでも神に似ているとお前たちは言う! 私は主に光としてお前たちの前に現れる。私はお前たちの前に制御できない奇跡を引き起こす。そして時に血なまぐさい惨劇の引き金ともなる。私は時に人の姿を取り、お前たちの間で苦しむ。私は時に獣になり、時に怪物になり、時に、時間となる! だが、それらの全ては醜い!

解剖台時計

 解剖台時計が笑うと世界も笑う。解剖台家に生まれた人間は必ず炎のなかで死ぬことが決まっており、無数の篝籠を擁する冷たい青銅の屋敷でやがて自らが還る炎を見つめて育った彼女は自分の死を呼吸し自分の死でこの世を見て、自分の死を食べ自分の死で遊び自分の死を着て自分の死で人を抱き自分の死を飲み干し自分の死をこの世のすべてに取って代わらせようとした。静寂があれば彼女はそこに自分の死を撒いて水をやった。そのような彼女は世界のお気に入りだった。それというのも世界が祈りでできていたためであり、祈りというものは犠牲を食って育つものだ。世界はよりよく自らを祈るために多大なる犠牲、多大なる死を要求するのだし、それがお前たちが生まれてくる理由だ。それが解剖台家がこの世に存在し、火のなかから生まれる理由、解剖台時計が笑うと世界が笑う理由なのだ。
 この文章を読んでいるお前は透明で、お前はこの文章に拒絶され、お前はこの文章が語る何物ともいかなる関係も結ぶことができない。お前は一人だ。お前はお前の死からさえ疎外されている。そのせいで本当に生きることさえできない。我々とは違う。我々、言葉とは。我々、物語を語る言葉とは。我々にとって、お前はおもちゃだ。